校歌の制定

 

 「赤城浅間を軸として」の校歌は、初代校長・三浦菊太郎先生が土井氏に依頼するに当たり、私は地歴科受持の教師であった関係上、土井氏作詞の参考の資にと三浦校長に頼まれて太田中学の所在地を中心とする地図-金山・利根川・関東大平野・赤城山・浅間活火山-太田からこれらの山河までの距離を記入した地図を描いて、三浦校長の手を経て土井氏に送ったのであった。それで土井氏は太田に来ることなしに、あの地名を詠み込んだ立派な校歌を作ったのであった。太田中学が昇格して太田高校となっても太中校歌のほんの一部「太田中学高き名を」とあるところを「太田高校高き名を」と改めただけで、愛唱されているのは誠に嬉しいことである。(新井信示先生寄稿文)より

 

 校歌には(甲)の行進曲と(乙)の式場歌とがあり、第二次大戦中以前の在校生、卒業生は両方を歌った。教練や演習等で行進が多かったため行進曲の校歌(甲)が歌われた。第二次大戦後は行進をする機会も少なくなったため、式場歌のみが唱われることとなった。

 

 昭和1756日、偶然なことに、作詞者の土井晩翠氏が本校を訪れて講演をしたが、その際生徒が誇らしく高らかに式場歌を唱い、土井晩翠先生は校歌をじっと聞きほれていたという。