応援団小史

群馬県立太田高等学校は、明治30年に群馬県尋常中学校新田分校として開校した。開校直後から野球部や庭球部の活動が記録されており、生徒や教職員が他校との交流試合を行っていた。

 

 これらの試合での応援活動も行われていたようで、第一応援歌『時は来れり』は、明治末期に前橋中学校との庭球試合の際に作られたのが基とされている。また、全国中等学校優勝野球大会(全国高等学校野球選手権大会の前身)北関東大会に大正時代から参加しており、早稲田大学応援隊 初代隊長、吉岡信敬の仕込みを受けたと伝わる応援は「氣の利いた応援」と評され、現在の太田高校応援団のDNAが宿ったのである。

 

 戦後、高校野球が盛んになると応援も盛り上がり、各球場での応援が行われるようになった。太田高校では昭和34年正式に応援団が発足した。ところが、昭和30年代に太田高校の応援について『その当時の応援として、旧制高校のストームなどで唄われた「農兵節」が高校生らしくない応援』との新聞報道があった。当時、太高新聞においては、これら報道に対して疑問視している向きがありOBでも異論を唱える意見がある。ただ、この当時の応援団は、夏の高校野球県予選が近づくと有志が集まり、大会終了後自然解散となることが多かった。

 

 昭和39年、初代森邦雄団長を中心に11人が改めて応援部を組織し、同年春に文化部として正式発足した。昭和40年、2代関口福一団長のもと、初のリーダー公開となる第1回リーダー祭を開催、好評を博した。また運動部へ組織変更とともに、3代高木規夫団長は、さらなる改革、向上を目指した。足繁く神宮球場に通い、大学応援団の迫力、華麗な型、衆をまとめる力を学び、それを土台に、まったく新しい型を独自に創成した。3代高木団長の尽力により、太田高校応援団の今に伝わるほとんどの型が誕生した。

 

 荘厳かつ優雅な『校歌乙』、独特の太鼓のリズムから振り返って拳を打つ第一応援歌『時は来れり』、続いて『校歌甲』、第二応援歌『覇者の誉れ』『チャンス太田』『愉快だね節』『太高音頭』『逍遥歌』『三三七拍子』も完成をみた。その白眉ともいえる『金山太鼓』は、打ち寄せる敵を一気に打ち砕く、華麗・勇壮な型として印象に深い。また応援団とは何か、その真髄、団員の規範など精神面の探求もなされ、ここに太田高校応援団の礎が築かれた。

 

 この間、昭和41年6月に旧大団旗(450×320cm)が完成した。昭和42年1月応援団と改称し、生徒会の委員会組織へ組み込むに至った。観客を誘導する6大学方式の応援もこの頃導入された。

 

 昭和42年、4代浅沼義則団長により口笛の入る軽快な『行進曲OHS』、全員で演じる豪快な『応援団節』が取り入れられ、第2回リーダー祭において、3代高木団長の創成した演技とともに超満員の体育館で披露された。このリーダー祭は多くの人から絶賛され、一種の芸術作品とまで称揚された。初代から蓄積されたさまざまな努力がここに結実し、太田高校応援団の名を一気に高らしめ、現在でもリーダー祭「覇者の誉れ」として、太高祭の名物行事となっている。

 

 それ以後、各代の幹部は、夏の高校野球応援による引退後も後輩の指導を続け、代々引き継がれていく。日本の応援文化の真髄を取り入れた太田高校応援団独自の応援形式は、連綿として受け継がれ、多くのファンを魅了してやまない。現在でもこの独特の雰囲気の応援は、他校への脅威となっている。

 

 平成5年には大団旗が、平成27年度には新大団旗が、それぞれ松籟会(応援団OB会)及び金山同窓会(太田高校同窓会)の協力を得て完成した。さらに新たな歴史として平成21年に県内初となる桐生高校応援団との合同リーダー公開を45代摩庭啓人団長が両校OB会の協力を仰ぎ開催、その後、高崎高校応援部が加わり、平成27年には前橋高校応援団が加わり四校での初の合同リーダー公開が太田高校の幹事校の元、太田市内にて開催され、新たに群馬の応援文化を牽引するに至ったのである。

 

 太田高校応援団は昭和39年を初代とし、活動を継続している。創設以来の伝統と真髄を継承しつつ、令和5年度には60代幹部が就任し現在に至っている。